はじめに  2007年



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11月24日 アフリカは世界を救うでしょう

ジンバブエへの航空チケットを購入したときから、胸が高鳴る。旅の道具が入っている袋を空けたら、マネーベルト、キーブローカー、南京錠、鍵付きチェーンなどが出てきて、興奮してくてきました。
アフリカは、みんな生き生きとして、瑞々しい生命であふれていて、そしてエネルギーが強いから私のエネルギーの強さも試されます。旅とは、私という生物の生命エネルギーが試される、上げられる場なのです。

日本という国、いや近代国家といわれる国は、規則、法律で縛られ、次から次へ情報が押し寄せそれを処理する機械のように思考は回っていきます。パターンの中に、人は知らず知らずに押し込められていきます。

長旅をして日本社会に戻ってみれば、そういう自由の空間の少ない近代国家の問題が良く見え、私個人の生き方や社会の進む道は変わらなければいけない、勇気をもっ変化していかなければいけないと、強く思うようになりました。

ムビラ音楽は、この見えざる縛りから解き放つひとつの実践だと思っています。
ムビラは、「タタタ、タタタ」と一定のリズムで成り立ちます。同じフレーズをグルグルと弾き続けていくうちに思考は消え、頭は空っぽになり、指は自然に動き、目は自然に閉じられ、リズムだけが胸の中で回っていきます。弾き終わって目を開ければ、世界は鮮やかで新鮮で、平和、調和が見られます。こういう境地は瞑想と呼ぶのかもしれません。
ムビラは、ホーショウ、他のムビラ奏者、ダンサーなど、みんなでその境地を作ろうとできます。複数の人間が交じり合って、ひとつの秩序を作っていく、こういう境地を愛と呼ぶのでしょう。

私が生きるうえでムビラを弾いていくことは、この強く飲み込んでいく支配された世界で、自由や愛や平和を心に生まれさせ、それで満たそうとすることを助けてくれるものなのです。

日本の武道、禅、華道や茶道にも、そういう思考をなくし、心を無にして世界と一体化し、自由、平和、愛で満たされる実践があったと思います。
私は十代の7年間を空手道をして過ごしました。稽古を続け上段者になったときの、体を鍛え、型を体に染み込ませ、気を体中に満たした胸中は、ムビラのトランス状態とよく似ていると思うようになりました。どちらとも、私はまだまだ未熟すぎます。
しかし、ムビラを追い求めながら、この千年あまり世界が目指していた境地は同じだったのだと気がつけました。

アフリカも発展途上国と呼ばれる社会も、世界経済の波の中にあります。近代国家は、彼らの社会の調和を壊し、今も介入し続けています。この百年ぐらい世界は、急激に狂ったのでしょう。
今のジンバブエの経済、政治の混乱は、西洋各国の長き搾取の末、狂った調和の悪循環が膨らんでいるように私いは思えています。
彼らには、まだ原始から人類が求めていた心の満たし方が音楽やダンスの芸能、儀式などを介して、どうにか残っています。彼らがどうにか残している文化は、近代国家がなくしてしまった心を救うでしょう。そのように私は尊敬をこめて、ムビラ文化やアフリカと触れ合っています。

個人の心が変われば、世界は変わっていく。
アフリカは世界を救うと信じ、私はまたアフリカへ向かいます。

4月28日
ムビラ・ハリの会のこと

5月14日 
音楽療法としてのムビラ

5月29日
魂となって
6月17日
谷中カフェと蛍
7月22日 
ンゴマ・ジャパニの理事になる
8月24日 
新デゼ
9月30日
日本に住むジンバブエ人

11月24日
アフリカは世界を救うでしょう



9月30日 日本に住むジンバブエ人
長野駒ヶ根JICA訓練所にてジンバブエ友の会主催のアフリカキャラバンに招待して頂きました。
そこで、下諏訪に住むジンバブエ人のかたとお会し仲良くなれました。ガーナ、ナイジェリア、ケニアなどのアフリカの人には時々会います。しかし、ジンバブエ人は少なくて、日本でショナ語や彼らの習慣を教えてもらいたいと思うのに、交流を持てず寂しく思っていました。念願のジンバブエ人の友人です。

チオタ出身のナモさん。私の絵本「紙とつながる音」の主人公はビジ。これは私の愛用しているムビラがガリカイ氏のものなので、ガリカイのトーテム(一族のしるし)ビジをつけたのです。「僕もビジだ。ビジの祖先はチオタにある。」と教えてくれました。ガリカイもチオタ出身、ムビラ職人ブレもガリカイと血のつながりがあるというし。トーテムって深いなあ。

ナモさんは日本人の奥さんと4人のお子さんと住んでいます。日本で生まれたお子さんも全員ジンバブエ国籍を持っているそうです。お子さんは全員ショナの名前です。ナモさんは「日本で育つと自然から離れ、ショナのスピリットがなくなってしまう。」と嘆いていました。奥さんも「ハラレでは、庭にアボカドをまけばすぐ大きくなり、果物がほしければ庭にいき自然の恵みを感じられるし、のんびりとした時間が流れる。それに比べ日本は、とても住みにくい。できればジンバブエで暮らしたい。」と話していました。黒人の中でも、ナモさん一族は教師の家系のようで豊かなのでしょうが、よく分かる気持ちです。

私の「神とつながる音」の紙芝居とムビラを聞いて、日本人の子供たち、ナモさんの子供たち、みんなにショナの素晴らしさを伝えられると喜んで、絵本を複数購入してくれました。ムビラやムビラのCDもほしいとも言っていました。ご夫婦で子供にショナ人であってほしいという気持ちが強いようです。彼のショナのアイデンティティを守りたい心が胸に響きました。

ナモさんは言っていました。「子供の頃、ムビラの儀式(bira)は毎週のように村で行われていた。でも、独立戦争のとき戦士に撃たれるから、夜間外出禁止、夜間集会禁止になって、それ以降あまり行われなくなった」と。ナモとは「問題」のことらしいです。独立戦争の問題の多い時代に生まれたため、問題がなくなるようにそういう名前をつけたので、この世代には「ナモ」は多いそうです。
今のジンバブエにも「ナモ」は多そうですね。

8月24日 新ゼデ
ムビラは、大きなひょうたんのケースに入れて、音を大きくします。最近は、ナチュラルなひょうたんのデゼはジンバブエでも入手しにくくて、いろいろな色のグラスファイバー製のものが多いです。
クリアーな色のデゼです。

画材屋で蓄光作用のある発光発光塗料を見つけ、絵を描いてみました。5分光を当てると30分光ると描いてありましたが・・・。(画像をクリック)
師匠パシパミレのトーテムがnzow(ゾウ)なのでゾウ。ジンバブエのフラワーバティックのデザインが大好きです。模様には伝統がある様子。亀やトカゲは昔話の動物、魚はカリバ湖、花はジンバブエの象徴的な花ユリ、三角はチマニマニの山、ナミナミはザンベジ川、グルグルはかつてショナ族は貝の底をペンダントにしたnrodoらしいです。人によって説明が違うけど、絶妙な模様のバランスが素晴らしいのです。。
薄暗いライブで、このデゼの模様が浮いたら幻想的でしょうね。ライブで使うのが、楽しみ!

7月22日 ンゴマ・ジャパニの理事になる
昨年、ンゴマ・ジャパニ(東アフリカNGOMA親交会)が立ち上がった頃から、同じようなことを考える人たちがいるなあ、とその有意義な活動に共感し心強く思い、個人的にもメンバーと仲良くさせてもらってきました。
この度、これまでの協力をもっと太くして、正式にメンバーとして仕事をしていくことになりました。

アフリカを旅して、ムビラを中心とするアフリカの楽器に接して、楽器の持つリズムと音と踊りと歌、そして聖なる世界とのつながり。それは今、大地とのつながりも人とのつながりも、聖なる世界とのつながりもみんな分断されて、個人がバラバラで孤独な日本の心を元気にしてくれる力を持っている、そんな思いを持ちました。明るく、生命力をもてるメッセージを発信したいと、これまで自分なりに活動してきました。

でも、一人の力はとても小さい。

ジンバブエが東アフリカかと、問う人もいると思います。
でも、ショナ語とスワヒリ語はバンツー語圏で言語は似ているし、ショナ人は今のタンザニアやザンビアといった北部あたりから下って来た民族だといわれています。それに植民地政府が引いた国境線にこだわることは、アフリカの民族への尊敬心に反するでしょう。

一人でできないことも、みんなの力を合わせればできることがあります。
懐深く、小さな違いを包み込み、明るく平和に、地球人として生きていく為に、これからもムビラやンゴマ・ジャパニで多くの人と出会って生きたいなあ、と思っています。

6月17日 谷中カフェと蛍
ムビラ教室をしている谷中カフェの5周年のお祝いパーティーに出かけた。
「ムボビ(?)を紹介します」ってマツダ店長。
誰のことと思ってしら〜としていたら、私の紹介のことで慌ててスタンバイ。「ムビラです。」名前覚えてください。 お客のほうが知っていました。「お〜ムビラだ。本物だ。」って、ムビラは有名になったのか、やはりまだまだなのか。
2曲だけ弾かせてもらいました。

終電で帰ったのに、深夜私は自宅に程近い「県立四季の森公園」に向かった。
今週から1週間ほど蛍が見れるのだ。公園とはいえ深夜の森。やや心寂しくはあったが、この時期都合の良い時間帯は人が多くて興冷めなのだ。
森の奥のほうで優しく、か細く、1センチぐらいの小さな蛍が光っていた。フワ〜と飛んでいた。
アフリカで見た蛍たちは、イルミネーションのようにビカビカ光っていた。ガーナでは現地の人が「Flying dragon」なんて呼んでいた。まさにそんな風合いだった。
アフリカの蛍を知ってから、日本の蛍のか細さ、はかなげさが、寂しく思えてならなかった。蛍さえも国民性が出るように思えた。
しかし、昨夜の木の葉に止まり、小さな体でジワーと発光するその光に勇気を感じた。
一生懸命生きているその小さな虫の光に。

5月29日 魂となって
昨年、腰痛を訴えていた父が多発性骨転移を伴う肺がんで余命半年と知らされたのは、6月のことでした。覚悟を決め本人は遺書を用意し、積極的な治療をせず短くとも豊かな日々をと思って、家族は在宅での療養生活を整えました。車椅子でも海外に行き、間際まで国内を旅し、最後の入院まで陶芸家として器をつくり、「人生に悔いはない」とよく言っていました。
余命半年が、一年以上生き、無理だと思っていた還暦も向かえられ、5月25日旅立ちました。
死後の10日間は苦しみましたが、母と子供3人に囲まれ、私は最後の一息まで見守ることができました。

私には、甘えを許さない厳しい父でした。
呉服屋の2代目として商売が繁盛していたころは、私たちは日本中を旅しました。私が小学校高学年のころ、商売が傾くと父は、家族を置いてインドへ行ってしまいました。すべてが嫌になったのでしょう。母も気丈な人なので、父の留守をいいことに残された家族でヨーロッパに旅しようと計画中、父は帰国し結局家族全員でヨーロッパに行ったりもしました。その後、父はよく働きましたが、陶芸と登山に熱中しました。「早く大人になれ。20歳を過ぎたら家を出ろ」とよくいいました。子供の努力を認めたり、褒めるということをできず口を開けば皮肉になり、私も父には心を開けずに来ました。

父は、私と弟が社会人になった46歳で呉服屋をたたみました。趣味でやっていた陶芸のアトリエに実家を改装して、陶芸と登山に残りの人生を注ぎ込みました。
社会人となって実家を出て、一気に育った家の形が消滅したため、私も弟も新人のころ仕事が辛くても実家に心休める場もなく、一生懸命与えられた仕事の中で努力したように思います。

私はこんな父に対して、長い間わだかまりがありました。
そんな思いが変わったのは、2年前「内観」という瞑想修行に行ってからです。両親に対し、していただいたこと、して返したこと、迷惑をかけたこと、を幼少期から思い出していく修行です。一週間の修行を終えたとき、私が期待する愛の形でなくても、両親は私を愛し大変な苦労をして育ててくれたのだと思え感謝したのです。父に対しても、父という役割を持った人ではなく、一人の人間として苦悩の多い人生だったことを感じ、同情さえ覚えました。私が内観修行に出会ってから一年、父は末期がんになりました。このタイミングで内観にいけたことに運命を感じてなりません。

打ち解けた間柄ではありませんでしたが、こう父を亡くしてみると喪失感が深く、感謝の思いがこみ上げます。
幼いときから多くのところへ連れて行ってもらい、旅の素晴らしさを知りました。呉服屋で美しい反物を見ながら大きくなれました。自立して生きることを教えてくれ、私は職業を持てました。
親孝行というものは難しいです。いろいろなものを買っても、介護をしても、孝行した気にはなりませんでした。父は「人生に悔いはない」といいきった人でした。自分の思いを貫いて全うした人生だったのでしょう。そして父の愛した母を大切にしなければ、自分も悔いの残らない人生を送らなければと思いました。

死者は魂となって、子孫のことを見守っているといいます。でも、家族のメンバーの出来事に関心の少なかった父です。死んで魂となった父は身内のそばにいるより、気楽になって、フワフワと自由に好きな国や山を遊び歩いているほうが似合います。父は「遊人(ゆうと)」と名乗っていました。無宗教で葬儀にお坊さんも呼びませんでした。戒名も遊人と自分で指定しました。
この一年車椅子生活でした。
魂となって、再び自由に浮遊してほしいと思います。

5月14日 音楽療法としてのムビラ
これは、私の魂を癒す看護とムビラという二つの仕事の話。

子供の頃からの夢を果たして看護師になったが、医療界は「個別性のある看護」を常に目標に掲げるほど、余裕なく人工的だった。やりがいを感じながら、医療界全体に得体の知れない虚無感、疲労感が漂っていて、私はこの世界から手を引いて旅立った。

アフリカに入り、繰り返し回転していく音の中に、心が静まりそして歓喜の興奮が沸き起こることを知った。初めて体験したのは、カイロのスーフィーダンス。あれは観光用だが、スーダンの首都ハルツーム郊外で出会ったスーフィーは本物だった。野原の中央の緑のモスクで、楽団は大合奏し、緑の服に巨大な数珠をぶら下げた人々や障害を持った人が白目を向いて踊り狂い、あの恍惚さは神の存在を信じた。
これと同じように音楽による魂の開放を感じたのは、ジンバブエのムビラだった。儀式の中で、あの揺らぐ音と鼓動のようなリズム。多くの人と同じリズムに身を任せていくうちに、すべてのものが一体化して自分が溶けていくような気持ちになった。

旅を終えて日本に帰れば、日本の社会全体の窮屈さ、緊張感と不自然さは、増大しているように思えた。日本に帰ってからも私はムビラを弾いた。自分の魂の開放の為に。
看護師をしながら、アフリカとの結びつきを思い、ムビラや絵の創作をしている私は、この2つの仕事の間に矛盾を感じなかった。いや、この創作と看護を融合させているからこそ、どちらも潤滑にやっていけているのだと思う。

ムビラサークルのメンバーと、今年ホスピスに行った。ショナ族の魂を長い年月癒してきた楽器は、同じ人類として、病気になり精神が緊張状態に置かれた日本人にも役に立てるのではないかと思ったのだ。
ムビラの音は小さい。シェーカーをつければそれはダンスミュージックになるが、ムビラだけで弾けば心地よい揺らぎの音となる。そして、患者さんのベットに生演奏することができる。魂を癒せる音は生きた音であることが大切だ。生きているからこそ、空間を泳ぎ人の魂に伝えられるのだ。そして、ムビラは合奏。人と人が繋がりあった音の中に包まれるからこそ、奏者も聞くほうも一体感を感じるのだろう。
ホスピスでの演奏で重症で激しい息使いをしていた患者さんが脱力していき、最後に微笑を見せてくれた様子に私たちは感動した。
ムビラは、世の中の役に立つと確信できた。
そして、以外に院長や看護師などスタッフが、私たちの訪問と演奏に安らいだのだと知った。医療界は狭く、責任感、緊張感の中で働き、知らず知らずに魂が固く小さくなってしまうのだ。医療スタッフにも安らぎの場となるのだと思った。

私の父も闘病中だ。病院に私はムビラを持っていく。父に、病室の方へ、スタッフに少しでも安らぎのときを届けたいと。でも、いつも病人は具合悪そうで、興味津々なのはお掃除の方ばかり。
病室で病人と話す言葉もない息詰まる空間。そんなとき、ムビラを弾くと私の心は和み、会話はなくても父に何か届けられたような気持ちになれて、救われる。

ムビラの音は、なんて多くの人を救うのだろうか。
私はもっと多くの人に届けられるムビラの技術を持ちたいと思い続けている。
医療と音楽、遠いようだが目的はひとつ。人の生命を支え助けるということなのだ。

4月28日 ムビラ・ハリの会のこと
 ジャカナカ・ムビラサークルを立ち上げてから、1年半。ジャカナカサークルは、ムビラジャカナカに預け、今春から、新たに自分のサークルを立ち上げようと動き始めた。
 
 サークルは本当にすばらしいものだ。アフリカやジンバブエのことを知らなかった人が、熱心に弾いて、自分たちでパフォーマンスまでするようになった。彼らの心の中では、アフリカとのつながりが生まれているだろう。世界が、こういう何かの共通点で繋がれば、きっと世の中は平和になると思う。
投げた小さな石が、波紋となって広がってくれることを願って、さあ次の石を投げよう。

 まず、新サークルの命名。これが難しい。ショナ語でポジティブな名前をいくつかあげた。悩んだ結果、壺=hariに決めた。

 田舎のショナ族の小さな丸い家の中央には、囲炉裏があって今でも彼らは火をおこし、壺を置いて肉を炒めたりしている。家の中に、大きな壺が3段ぐらいに積み重ねられ、儀式ではそれでビールを造る。壺の空間は、彼らの生活を彩る食べ物や飲み物を生み出す創造の場だ。彼らの壺は釉薬を持ちいらない素焼きのものが多く、赤茶けた焼け具合やすすで黒光りした輝き、使い込んだ壺そのものに生命力を感じた。陶器は、土を練って焼いて作るが、まさにショナの大地をかたどった壺に惹かれていた。

 私の中にも壺がある。ムビラはそれを満たしてくれて、芳醇なビールを作り上げ、私の人生を酔わせてくれる。
ムビラの儀式では、小さな壺に入ったビールが参加者に回し飲みされる。私がムビラ・ハリの会に思うのは、まさにそれだ。
私が習ってきた私の心を満たすムビラ音楽というものを、他の人に回してみんなで酔いたい。私は、ショナの人が頭に壺をのせて運ぶように、ムビラをもって出かけたい。

 5月から、東京の町田と千駄木でMbira Hariの会が始まる。
ジャカナカ・ムビラサークルの立ち上げでも、場所を確保するのに苦労し、多くの人にアドバイスを受けお世話になった。今回も、私の計画を応援、理解し助けていただいて、感謝でいっぱいになった。
立ち上げ一回目というのは、いつも不安で、前は誰も来なかったら自分たちの練習日にしようと、ジャカナカと笑った。今回も、誰もいなかったら一人酒のように、ムビラという酒に酔って、その日は弾きまくろうかな。

追記:こう書いても、実は私は正真正銘の下戸。でも、いつも酒の雰囲気だけで、楽しくほろ酔いなのだ。



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