第4回 ムビラ修行記
2007年
11月29日〜2008年2月29日 
◆師匠と共に暮らして
厳しく逞しいジンバブエ人たち
◆Guva(グウワ)
◆Bira(ビラ)とスピリット
◆人々の死 
◆ショナの教え

第5回 2009年修行記→
◆ 師匠と共に暮らして
 前回はHarareのcity centerの宿から40分ぐらいかけてムビラの師匠Luken・kuwari・pasipamireの自宅、古くからの黒人居住区のひとつであるhigtfield のjerusalem地区へ通っていたが、今年はジンバブエ経済の悪化のニュースに食べ物、移動の確保ができるか心配だったので、3ヶ月間師匠の家で共同生活させてもらうことにした。

 師匠もムビラ職人などもこの経済苦に負けず元気でいた。10月に現地の新聞Heraldに私のムビラ教室の記事がのったことは話題になったようで、「日本にも自分たちの文化が広がっているんだ。記事にしてくれてありがとう」と驚くほど歓迎された。パシパミレ一家

 師匠は56歳。32歳の妻バイオレットと7歳の娘ノメータの3人暮らし二間の家に私が加わったのだ。私はリビングの床に毛布を敷いて、寝相のわるいノメータに蹴られながら寝た。黒人だけの地区に住み込んだので「エリカ」「ムルング(白人)」と毎日近所の子供が駆け寄ってくるし、大人もみんな私の名を覚えて「エリカ」と連呼する毎日だった。
 師匠の家には電気はない。明かりは蝋燭、料理はパラフィン(灯油)ストーブでする。
 朝、6時ごろ起きると食器洗と、庭をマチャイロという箒で掃く仕事が私の日課となり、ノメータを学校に送り出し、洗濯やトイレを使ってバケツで水シャワーをすまし、仕事が終わって10時ごろやっと朝ごはんでパンと紅茶。パンが買えない日は「チモド」というショナ式手作りパンケーキやポーリッジだった。
 お昼はないことも多い。朝食が遅くなれば一日二食ですむからと。私はお腹がすきドーナッツなどを買い食いした。
 夕方6時ごろサザの夕食。時々ライス。野菜(ムリオ)だけの日もあれば、魚や肉の日もあった。師匠は魚と虫とヤギにアレルギーがあるので、その日は師匠だけ別メニューになった。
 8時すぎには就寝。夜は強盗がでるので扉に鉄の棒が差し込まれ、外のトイレにも行けなかった。家族は夜はバケツで用を足しているが、私は飲水制限をして済ましてしまった。けして治安が良い場所ではないのだ。
 今年の雨季は雨が多すぎて作物が育たず、2月まで寒かった。雨が激しくなれば何もできないので、みんな家で昼寝をして過ごした。時はゆっくり流れていく。

 彼らはパン(チングワ)が大好きだが、11月ごろより高額で品不足だが流通されだし、みんなパンを待って店先に行列した。私もみんなに混じって毎日のように、スーパーに並んだ。ムルング(白人)が行列の圧力に押されて怪我でもされるといけないと思うようで、店員や行列している人が優先的にパンを与えてくれる日も多かった。親切な気使いのある人たちだ。

 住み込みでのムビラ修行なので、朝食前、夜蝋燭の下、時間を選ばずレッスンとなる。自己練習のときも昼寝をしていた師匠が「そこ違う」と寝室から声をかけてくることもある。
 前回までレッスンは新曲を学び、多くの曲を正しく弾けることを考えていたように思う。でも、今回は「ムビラは儀式のためにある。儀式で人々の要求(ダンス、場面)に答え、曲を選び、スピードを選び、弾けるようになること。」を求められた。それがgwenya mbira(ムビラ奏者)なのだ。

 3ヶ月終わったとき「お前はgwenya mbiraとして成長した。我々の祖先は、お前を歓迎した。」と師匠は言ってくれた。師匠の50年近い技術、経験の奥深さに圧倒される毎日で、自分の成長は実感できない。しかし、師匠と共に暮らし、懐に飛び込み、ショナに従おうとしたからこそ見え、感じられた貴重な日々だったのだと思う。
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◆ 厳しく逞しいジンバブエ人たち
 2007年のジンバブエは、10万%インフレといわれるほどの経済崩壊の中にあった。10月ごろは店頭でも闇でも物のないときがあったようだが、11月30日に到着したときは一応店先に物は並んでいた。小学校にて

 公式レートは1us$=30,000zim$。これは3ヶ月変動しなかった。だが、闇レートは12月1日1,900,000zim$で公式レートとの差は60倍以上だ。もちろん外貨を持つものは銀行で両替をすることはできず、警察の目や悪徳な闇両替人に引っかからないように、安全に両替してくれる人を探す。この闇レートは3ヶ月後の2月28日15,000,000zim$になっていた。3ヶ月で8倍近いレートの上昇だ。
 闇レートもあがるが、物価は毎日のようにあがる。コンビ(ミニバス)の物価で見てみるとmatipisa(家の近所のバス停)→market bus station(ハラレ市中心部のバス停)が12月500,000zim$だったが2月末4,000,000zim$の8倍にまであがった。レートの上昇が鈍い時期は、玉ねぎ数個で1us$近いという日本並みの値段のときもあり、外貨をもつ私たちにも生活は厳しいと感じた。ムビラメーカーたちはもはや自分の国の紙幣を信用せずus$で取引を求めた。当然だ。

 人々の生活は給料は上がらないので、もっと厳しい。バイオレットの母は、近くの病院に勤めているが月15,000,000zim$程度の給料だった。でもこれだとコンビで勤務に通う人は、仕事に通う交通費だけで月給を使い切りマイナスになるので、遠くから通っていた人は来れなくなり、職場は人手不足だと嘆いていた。

 政府のインフレ策は、これまた滑稽だ。
 12月末、突然750,000zim$、250,000zim$ 、500,000zim$の新札を発行し、今までの最大の通貨200,000zim$札は年内で使用禁止となる発表した。12月31日に近くにつれ、店もバスでさえも使用期限が迫った200,000zim$札の受け取りを拒むようになり、国中に紙幣が足りなくなって、12月31日どこの両替屋も紙幣不足で両替してくれず私達はハラレの町で途方にくれてしまった。そうしたら、大晦日の昼ごろ中央銀行総裁Dr.Gonoが「200,000zim$はまだ使えるようにします」と演説して、一瞬にしてまたこの紙幣が使えるようになったのだ。この紙幣は、今だに使える。そして、政府は1月18日にも1,000,000zim$、5,000,000zim$、10,000,000zim$の新紙幣を発行した。
 自分が発表したことを簡単に覆し、3ヶ月の滞在で2回も新紙幣発行をし、足りなくなったらおもちゃのように紙幣を刷る政府の滅茶苦茶ぶりに私達外国人は呆れた。でも、ジンバブエ人は慣れているのだろう、だれも呆れたり怒ったりせず現実をただ受け止め行動するだけだった。
 しかし、彼らは暗算が苦手だ。紙幣の種類が増え、million 、billionと数字の桁が多くなり混乱していた。私の暗算と計算機はよく活躍した。チノイケーブ

 こんな経済状況でも、独立以来27年間独裁政権を続けるムガベ大統領を支持する人の声は聞こえる。師匠は独立戦争を戦った元戦士だが、「chengeが必要だ」と3月29日の大統領選挙ではムガベし支持しないという。しかし、妻バイオレットは熱心な与党zanu-pfの支持者でミーテイングも良くいき、家ではムガベ支持の仲間が集まって熱く政治を語る。「この国は昔、グレートジンバブエ遺跡やチノイケーブなど尊い地では、空腹で困ったとき祈ればスピリットは食べ物を出現させてくれるような、奇跡の地だったんだ。白人達は聖地を荒らし、私達の地を奪った。白人達からこの地を守らなければいけない」と独立を勝ち取り、イギリスなどの経済制裁に屈しないムガベを支持するのだ。

 人々は毎日を逞しく明るく生きている。 
 食べ物が入手しにくい時期は、師匠の家もクムシャ(田舎)からメイズ(とうもろこし)を取り寄せたり、いつも家中に砂糖、小麦、クッキングオイルなど貯蓄し、流通が止まっても生きていけるようにしていた。師匠は、毎日マチュピサに行き闇市で流れるものをチェックする。運がよければ入手しにくいパンや油を買ってきた。ハンターのようだと思った。
 暮らしていたhigtfield のjerusalem地区は、断水はほとんどないが、雨が降れば停電した。他の地区は停電も断水も日常だ。バイオレットは蝋燭を作る小さなビジネスを始めた。停電になると多くのお客が蝋燭を求めて家に来た。他の人も庭で野菜を作ったり、闇市で何かしら売って生活を作ろうと工夫していた。
 今年は、家の賃貸料が払えず田舎に帰っていく人も見かけた。「もうジンバブエは疲れたから日本に行くよ。」などとジョークばかりいっている。生活が楽になる兆しは何もないのに絶望などしないで、どんな状況でもどうにかやりくりして生き抜こうと、みんな前向きなのだ。
 この強さがアフリカの魅力なんだな。
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◆Guva(グウワ)
 2006年滞在したときも、グウワという儀式に協力する話は師匠パシパミレとの間にあった。2006年は師匠の家族の意見をまとめる時間がなくできなかったが、今年はどうにか行うことができた。
 グウワは、死者が死んでから一回は行われ、この儀式を通じて死者の魂(スピリット)は祖先の地(クムシャ)に帰りその地を守る魂となる。この世は祖先の魂が守り支配していると考えているショナ族にとって大切な儀式だ。

 このグウワは、師匠のクムシャであるモンドロで死んだ兄、カドマという地で死んだ兄と弟の3人のためのものだ。12月中は、家族の意見をまとめることに時間を費やした。
 ハラレの師匠はやりたくても、モンドロの兄がやりたくないというのだ。どこの国でも家族間のトラブルはあり、人間関係の調整と、儀式には多くの食料が必要なのでこのパンの手に入りにくいときに20斤そろえたり、食料入手に私たちは奔走した。
 そして、12月22日ハラレから南西60km、師匠の生まれ故郷モンドロに向かった。放牧と農業、大地の恵みのみで暮らしていく典型的なジンバブエの村だ。

セブンデイズを煮る 到着したとき、儀式の場となるモンドロで死んだ兄が暮らしていた小さな家の前で、一週間かけて作られるセブンデイズという穀物の酒をドラム缶を使って一族の女たちは作っていた。このお酒は祖先の魂にささげる聖なる特別な酒である。私も作業の一部始終に加わることになった。

 一日目ポーリッジ(メイズの粉を軟らかく煮たもの)+水+チメラ(醗酵を促す穀物)をいれ8時間煮る、二、三日目かき混ぜるのみで放置、四日目ローレルなどのスパイス+チメラ+ポーリッジを入れ8時間煮る、五日目チメラ+ポーリッジを加え混ぜる、六日目混ぜるのみで放置、七日目ポーリッジ+チメラを加え煮る、冷めたらこして壷に入れて、その夜の儀式から飲めるようになる。スピリットに捧げる酒である。ふたを開け覗くときも「バブソロイ(失礼します)」と手をたたいて挨拶をし、ホロロ〜とムルルをしていた。

 2月28日グウワは行われた。連日大雨で、この日も夜は嵐になった。草原での嵐は、一面湿地帯と化した。
 まず、午後に高くて入手に苦労して私が買ったヤギ2匹を絞めた。
モンドロで死んだ兄の墓の横にカドマで死んだ二人の墓として穴をふたつ掘り、その穴に白い布で包んだヤギの首とカドマの墓の土を入れた。そういった一つ一つの儀式の度に、チーフ(男性No1は老人で盲目となりNo2の師匠の兄が代理をしている)は靴を脱ぎ頭をたれて祖先に祈り語る作業をはさんだ。
 儀式の手順、様式に細かな決まりがあることが印象的だった。
 ヤギの首は、死者の遺体を意味し、ヤギの首を埋めることによって地方で死んだものの遺体がクムシャに帰ることとなる。ヤギの首を埋めた墓に向かい、一族は順々に立ち上がり発言し死者に語りかける。私も発言を求められ「この儀式を体験でき、文化を学ばせてもらう喜びに感謝する」と英語で伝えた。

 セブンデイズは壷にいれ一部はしっかり土でふたをされ祖先に捧げられた。セブンデイズには、サザなど食べ物も捧げられた。
guvaでのムビラの演奏
 夜、8時ごろ全員が小屋の中に入りセブンデイズとムビラに祈り、ムビラの演奏は始まった。ムビラは祖先の魂とつながる音楽であり、祖先の魂は夜6時すぎから朝8時までの暗い時間に訪れるので、ムビラの儀式は常に夜行われる。
 ちなみにショナ族の伝統文化の聖なるデザインは白と黒だが、これも白は生の世界、黒は死者の世界を表している。
 ムビラ、ホーショウ、ンゴマ、男も女も立ち上がり歌い、掛け声をかけ、手を叩き、激しく朝が来るまでダンスと演奏が続いた。師匠が入ると、演奏はまるで違った。「マサルーラ(師匠のトーテムの意味)」と人々は師匠の名を連呼し、熱狂した。

 朝、8時ごろからkugzururaという儀式に入る。
これはguvaにより呼び起こした死者の魂がその地を守る魂となる儀式だ。
 ヤギの胃袋の一部が小屋の外で捨てられる。その後、死者を模した3人の少年が白い布をかけれれ小屋に入ってくる。世話役は少年たちに、セブンデイズをつけた金槌を打ちつけ、彼らのスピリット強靭さを示した。このスピリットを模した少年たちにも、お金と共に伝えたいことを一族順々に発言していく。
 最後に、土で封印していたセブンデイズの壷のふたを開けて、儀式は終わる。

 一週間儀式の準備から体験し、一晩の儀式に一族のように参加させてもらった。
 家族間の嫉妬で具合が悪くなったり、ヤギや儀式に使う食料が入手しにくかったり、準備が大変だった。
 モンドロで暮らし、雨嵐の草原を移動し、火をおこし、井戸から水を汲み、自給自足に近い生活は厳しくも豊かだった。女は床に座り、男はベンチに座るような伝統的な習慣の数々は、日本にも多分あったのだろう、懐かしい思いがした。

 暖かく包み貴重な体験をさせてくれたモンドロ、クワリ村の一族への深い感謝は言葉にできない。
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◆Bira(ビラ)とスピリット
 mbira dza vadzimu(ムビラ)は、biraの為に生まれ発展した楽器といっていい。ムビラの音によって祖先の魂が霊媒師に降りてきて人々にメッセージを与える。
 モンドロのアンブヤ・セケがbute(かぎタバコ)と少しのお金を包んで、チャミヌカのスピリットがほしいとムビラプレイヤーとして師匠をviraに招きにきた。師匠は、その晩受け取ったbuteとお金を木の皿に置き祖先に祈った。
 そして、1月13日、私たちはbiraに行くため夜モンドロに向かった。

 師匠はbiraに招待されても儀式で弾くことは少ない。ムビラ弾きはbiraで鍛えられて技術を成長させていく。いつも近所に住み同じ一族でもあるムデの息子たちを連れてbiraに行くそうで、今回もムデの息子たちが移動中から演奏しはじめ、狭い車の荷台はムビラと歌とホーショウで満ちていた。

 アンブヤ・セケの村に夜中着きサザときのこ、サワークリームの食事をもらって、靴を脱ぎ時計などの機械類をはずして聖域になっている小さな丘の小屋に入った。このviraでは、カメラや録音などは拒否された。幅5mぐらいの丸い小屋は、足の踏み場もないほどの人でいっぱいになる。アンブヤ・セケは挨拶をし、セブンデイズの壷ひとつひとつに祖先への祈りを捧げ、ムビラの演奏は始まった。

 私は、一晩中ダンスをし、ホーショウを振らせてもらった。儀式の途中で霊媒師(svikiro)にスピリットが降りる。この霊媒師も師匠の家の近所のおばさんで毎日のように会うが、いつもは穏やかなおばさんなのでスピリットが降りると獣のように「ガォー」と吠えた。svikiroにスピリットが降りるとすべての火は消され、再び明かりが付いたときは、彼女は頭に羽帽子、白と黒の布をまとって杖を持った霊媒師の姿にはなっていた。

 svikiroは、ショナ語で黒魔術など人を呪うことを戒めたようだ。そして、師匠を招きセブンデイズを吹きかけた。私たちにも同様にセブンデイズを吹きかけ、頭からセブンデイズにまみれた。、これは悪いスピリットを取り除き私たちを祝福してくれたという。

 ムビラの演奏は、朝10時ごろまで続いた。朝、絞りたての牛乳の入ったお茶と生贄にされたヤギとサザをもらった。
 viraは、いつ体験しても寝ずに踊ったのに疲労感はなく、清々しく体は軽く、穢れが取り除かれ生まれ変わったような気持ちになる。

 この滞在で、ショナ族にとって「スピリット」が生活に密着しているということを感じさせた。
 師匠は、毎朝「夢を見たかと聞く」。夢は、未来のメッセージである。水、緑、空、魚、子供の夢は良いメッセージだ。料理や狩りの夢は良くない。不思議とviraの後、チノイケーブに行ったあとは、空を飛ぶ夢をみた。「ショナのスピリットがお前を歓迎しているんだ」と師匠は言った。

 アフリカ中で呪術(黒魔術)は盛んだが、ショナでは呪術師をNangaと言い市場の一角でいろいろな薬を売っている。病気などの治療をする良い薬もつくるが、人を呪う薬も作る。そして、霊能力者のようにその人の未来が見えて助言や薬を授けてくれる人もいる。

 「人は必ず嫉妬する。」と師匠はよく言った。師匠が高価なものを買ったりするとよく私も師匠も体調を崩した。「誰かがjuju(黒魔術)を使ったんだ。」といい、bute(かぎタバコ)を嗅いだり飲んだりして自分のもつ強靭なスピリットで守ろうとする。
 今までnangaの力もbuteの力も信じていなかったが、今回は信じた。 
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◆人々の死 
 ジンバブエの平均寿命は34歳。世界最低である。若い世代のエイズ感染が原因というが、医療の質の低下もあるだろう。

 身近なところでムビラメーカー、ガリカイ氏の弟が年末に急に死んだ。ガリカイ氏に「背中が痛いといっているが、良い治療はないか。」と聞かれたが、よく分からなかった。
 ムビラメーカー、アドマイヤー氏の妻シーラは、2006年ダンスを教えてもらっていたが、その後左大腿骨の骨腫瘍のような病気で大腿骨に金属を入れる手術をし、その後2年間入院してまったく左足が動かなくなって帰ってきていた。
今回は、ムビラメーカー、ブレ氏の元妻エスターにアドマイヤー氏の家でダンスを教えてもらったので、シーラを見舞うことは多かった。
 シーラの足は金属を入れた部位が感染しており、傷から膿が絶えず出ていて、ひどく痛がっていた。日本なら抗生物質で治療するが、薬も高く成す術がなかった。ナンガのところにも通い伝統的治療もしていたが、胃腸炎も起こし会う度に衰弱して痛々しかった。次回、彼女に会うことはできるだろうか。

 2月に、家があるたった5本の路地が在るだけのjerusalem地区で6件の葬式があった。毎晩、賑やかに歌って見送る葬式の音が響いていた。人々がよく死ぬ。

 1月18日、hakurotwi・mudeが72歳で死んだ。
 彼は、師匠パシパミレの親族でもあり、1980年代に「mhuri ye kwa rwizi」というグループで共にヨーロッパ公演もした人である。2年前ぐらいから病気で2006年に会ったときも活力なく見えた。ムデの死の前日、師匠は「何か変な気持ちがする。おかしい。」と落ち付かなく私との会話も成り立たない様子だったが、翌朝ムデの息子モジスが父親の死を知らせに来て、「昨日の気持ちは、この悪い知らせのだったのか。」と言っていた。師匠は感受性の強い人だと思う。ムデの妻は、キリスト教一派のポストリーの信者で伝統的宗教を否定し、ムデのムビラを焼いてしまったそうだ。昨年のviraで霊媒師は「文化を守らないものは死ぬだろう」と息子たちに言ったらしいが、本当に死んでしまった。

 葬式に、唯一外国人として参加させてもらった。女たちは遺体が着く前に、ゴスペルを歌い踊っていた。遺体が返ってきて、ゴスペルでみんなで向かえ、その後息子たちはムビラを弾いた。妻と息子たちで葬式の方法についてもめたらしいが、結局息子たちの意見が勝ち、遺体は故郷(クムーシャ)、モンドロに伝統的な手順で葬られた。

「文化を守らないものは、生きてはいけない。」ということを切実に感じた出来事だった。
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◆ショナの教え 
 師匠パシパミレは、長老らしく多くのショナのことわざや考え方を語ってくれた。年長者は、生き方を若輩者に見せてくれると思えた日々だった。
 
 印象に残ったものに「slowly is sure.rush is rubbish.」がある。ものごとにはそのものが出来上がるスピードがある。そのものにあわせて良いものを作るべきだ。それを無視して急いで作ったものは、ゴミを作るだけだ。

 ジンバブエでは、何を注文しても多くの人が約束を守らず、そのものの事情によって期限は遅れていく。ムビラメーカーたちも、ジンバブエに到着してすぐに注文したのに2ヶ月間ムビラは一台も入手できなかった。口ではみんな12月末などというが、結局強く催促して言って、帰国する2月にようやく手に入った始末。
 テーラーに、ドレスやTシャツを注文しても、「明日。」を繰り返して、1ヶ月かかった。今回は、毎日物価が上がって行くし、出来上がりが遅れたせいで郵便料金が改正されて一気に20倍の値段になるし、彼らの約束の守れなさにのせいでお金がかさんでいくので苛立った。
 師匠は、そんな時も「slowly is sure.rash is rabbish.」をいうのだ。彼らは、約束を守れなかったとき言い訳もよくするが、これも「物事には事情がある」のだがら、彼らが事情を説明したならば、事情を理解して良いものが出来上がるまで待ちなさいと師匠は言う。そして、彼らも説明すれば事情を分かってくれるという思考回路で、言い訳がましいと思ってしまうことを一生懸命話す。そうやって私が待ったから、必ずよいものが出来上がるわけではないが・・・

 師匠自身もこのことわざを実行する。私の今回のジンバブエ滞在の目的に、師匠とのレコーディングがあった。しかし、「今、来た。」と師匠が言うまで、レコーディングはできず練習を繰り返す。師匠は、歌や気持ちが降りてくるまで、感性が整うまでレコーディングはしたがらなかった。たった12曲を、丸3ヶ月最後の一日まで費やしてレコーディングした。計算通りレコーディングできず、最後のほうは気が焦ってしかたなかった。

 いままで、ジンバブエ人はなんでみんな約束を守れないのだ、そして約束を破っても悪びれないのだと不信にも似た感情を持つことがあったが、今回このことわざのお陰で彼らの思考が理解できるようになった。日本の言い訳しない習慣、約束厳守の習慣、早くてよき質のものを作ろうと努力するところなど、私は日本の美徳だと思うのだが、話しても誰も理解してくれなかった。ここに文化の違いがあって、どちらが良いでも悪いでもないのだろう。

 師匠は「与えなければ受けることはできない」という言葉も教えてくれた。
 「お金は運ばれてくるもの」ショナでは、人が困っているときに金銭などを求められたら、それは人が自分のところに来てくれた「幸運」だから、余力のあれば与え「スピリットからの祝福」を受けることが大切なのだという。
 「もし、困っている人が、何も私の特になるものを持っていなくても?町のホームレスでも?」と問うと、「スピリットが人を自分の前に送ってくれたのだから、与えられれば与えなさい。」というのだ。確かにただ歩いているだけで、「何か買って」ととりあえずお願いしてみようというような人にも良くあった。どこまでそういう声をまともに聞けば良いのか、困った。
 師匠も親族などに多くの援助をしていたし、人々は助けがほしいとき堂々と「困っている。」と無心に来た。日本では、なかなか見られない考え方だと感じた。

 私も、この教えを実践するため、帰国前にムビラメーカーやパシパミレの親族などお世話になった人を招いて、パーティーを開いた。
 この滞在を支えてくれたショナのスピリットへの感謝を捧げたパーティーだった。師匠は、パーティーの前に、祈り皿にbute(嗅ぎタバコ)をいれ、祖先に私への祝福を祈ってくれた。妻バイオレットは、サザにライスとご馳走を作ってくれ、みんなは酔って楽しんで過ごしてくれた。
 
 長く共に暮らすと、今までには見えなかった物の考え方の根本がこんなにも違うのかと思う出来事も多かった。それは、日本人である私の習慣や自分の文化への誇りと対峙するときもある。しかし、ジンバブエに来たからには、頭を切り替えて従ってこの文化の習慣に従おうとしたからこそ、この文化の深いところを感じられたのだと思う。

 ありがとう。滞在を支えてくれた、ショナのスピリット、師匠一家、ムビラメーカーたち、highfield jerusalem地区の皆。

 日本で、ショナが教えてくれたムビラと文化を伝え、ジンバブエの地で尊敬できる人々の生活があることを伝えることが、この滞在を与えられた自分の使命なのだと感じている

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