第3回 ムビラ修行記
2006年
1月28日〜4月27日

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3年ぶりのハラレ
 南アフリカのヨハネスブルグへ一泊することなく、飛行機を降りて直接バスに乗ってハラレまで来た。一日でも早くハラレに行きたかった。南アフリカの物価は、ほぼ日本並み。ハラレは情報通りひどいインフレ。3年前は1US$=6000Z$などだったのに、今は140000Z$。どんどんあがりそうな気配で、50000Z$という新たな最高紙幣が発行された。物価は、食費がかなり安いし、助かっているが、かつてのすべてが安い印象はない。

 ムビラ・ジャカナカのマサが先行して滞在していたので、彼とともに以前も習ったルケン・パシパミレ先生の家に行った。彼の家は、タウンシップと呼ばれる黒人専用居住区の名残のひとつパチュピサにあった。前年、大病をしたパシパミレはやせて、おじいさんの雰囲気を漂わせたが、ムビラを弾けば渋い深い音を出した。「エリカはシリアスになった。」といわれた。お互い3年経って印象が違うのだろう。
 週3回、パシパミレの家に通うことになった。


セグル・ムショーレ
ムビラジャンクションのくまさんと元ムビラゼナリラのダンサー、トンデライと一緒に、ジンバブエ3代ミデイアムスピリット(霊媒師)といわれるセグルムショーレを訪ねることができた。場所はゼナリラたちが住むナリラヒズルのふもとの村のノートン。
 ノートンでは、やはりゼナリラのメンバー、ヤマシージャの家へ案内してくれてサザをご馳走してくれた。こちらの村の人は、人をもてなすとき焚き火をして、食事をだし、ムビラを奏でてくれる。火は人の心も生活も暖める。焚き火をして人をもてなすという行為に、感激し、ゼナリラと共にムビラをセッションすることもでき至福なときを過ごした。

 セクルムショーレはノートンからバスで20キロほど走り、山道を歩いた静かな山の中に伝統的なかやぶき屋根のショナ族の小屋と石に囲まれ暮らしていた。
 敷地内の手前の石の前で靴と時計などの機械類をとるように言われた。。そしてスラップハンド(拍手)をして訪れたことを伝える。女の人が「ホロロロー」と声を出しながらやって、ムショーレに伺いを立ててくれた。聖なる地を横断するときは、スラップハンドや「ホロロロー」という声を出すことが大切な決まりのようだった。

 トンデライに、歓迎されるかどうかはわからないといわれていたので、緊張して待っていると、ムショーレは現れた。70歳ぐらいの穏やかなおじいさんで、毛皮を着て、ショナ族の杖を持ち、原始的な生活と姿をしていた。自分達の民族の独立について、今の政治について、中国や日本は経済的に援助してくれて歓迎だといっていた。霊媒師だから、精神的な話をするのかと思ったら実生活に近い話をしてくれた。
 実生活とピリチュアルなことが日本のように切り離せれていない、ショナの文化を感じる。ムショーレは、亀を抱いていて「長生きする縁起の良い動物だ」ということを言っていた。日本との近さに親近感を覚える。

 静かで緑深い山、セグルムショーレに歓迎されて彼に会えたこと、何か心が軽くなりこれからのこのジンバブエでのムビラ修行の旅が、ジンバブエのスピリットたちに歓迎されているような思いがした日だった。


スピリット
 朝8時半ごろ宿を出る。込み合ったコンビと呼ぶハイエースを乗り継いでマチュピサに行く。パンや食べ物を持参して、パシパミレ一家と軒下で朝食をとってから、レッスンは始まる。
 パシパミレの話を聞くたびに、彼は伝統的なムビラ奏者であり、ショナ族のムビラ文化を語り継いできた人なんだということを感じる。
 彼はムビラ音楽で大切なことはスピリットを降ろせるかどうかだという。チャムテングレのような曲は「楽しくみんなダンスをするだろう、でもスピリットはやってこない」。有名なムビラ一家ムジュル家が一晩かかって祖先の霊を儀式で降ろせなかったとき、自分が行って3曲で祖先の霊を降ろせたと、誇りをもって語った。ムビラ弾きの技量というものは、うまいかどうかではなく、スピリットを降ろせるかどうかなのだ。どうすればスピリットは呼べるのか、私はなにを目指していけばよいのか、考えてしまう。

 この国で「スピリット」という言葉は大変よく聞く。
 スナフと呼ばれる嗅ぎタバコも、「スピリットを回復させる効果がある」と伝統的な薬類を売る店で言われ。病気もスピリットのバランスの問題で、ガリカイは「病院なんて本当は要らないんだ。スピリットの回復を待てば良いのだ。でも、現代は忙しいからすぐ病気を治さなきゃいけないから、病院に行ってみんな薬をもらうんだよ」と言っていた。
最近、彼らの語るスピリットは、東洋で言うところの「気」と同様なのではないかと感じてきた。日本とは遠いのに、知るほどになにか身近な感性をもつと感じてしまうショナ文化だ。


部族というもの
 ムビラはショナ族の民族楽器なので、ムビラを習うとショナ族の文化に興味がわいて来る。話を聞いていて、ショナ族と言っても、部族が違うと言葉や習慣が違うのだと感じてしう。
 ムビラの曲の名前、曲のビートの位置も人によって、解釈が違う。みんなが自分がオリジナルだという。
 先日、ムバレという地元の大マーケットでショナ族のアンクレットとブレスレットを買った。真鍮でできていて、「痛いところがあっても痛みが取れる」というので、ムビラの弾きすぎで肩がこりやすい右手と、故障している足につけてみた。
 宿に帰って、アンクレットの名前を忘れてしまったのでスタッフに聞いたら「分からない」という。「あなたショナ族じゃないの?」「ショナ族だけど、俺の言葉じゃない」というやり取り。彼の部族では、このような習慣がないのかもしれない。
 アフリカを旅し、アフリカのいろいろな部族、民族を知り、アフリカとひとくくりにできないことを知ったが、ショナ族もショナ族とひとくくりにしてはいけないようだ。

 隣国モザンピークで地震があった。ハラレでは震度2程度の揺れだった。私たちは地震の多い関東の生まれなので、そんなに驚かなかったのですが、宿のスタッフは「すべてが揺れている〜」と叫んで、外へ飛び出していった。
 みんな建物が崩れると思って、外へ出たらしい。その夜は、ずっと外が騒がしかった。新聞も一面地震についてのっていて、机の下に隠れるとか非難の仕方も絵つきで乗っていた書いてあった。大統領ムガベは敵が攻めてきたと思ったとか。
 地震大国から来ているだけに、大いに笑った出来事だった。



体全体で感じる
 ムビラを週3回習うほかに、ニュンガニュンガ、歌そしてダンスまで習い始めた。
 ダンスは、ムビラ、マリンバを作るアドマイヤーの奥さんが元ダンサーで、いろいろなステップを教えてくれる。
小さな家に女の人が5人ぐらいも集まってきて、一緒に踊り、ハイフールドダンスサークルとでも名付けぐらいの賑わいだ。
なぜか毎回ミニスカートをユニフォームとして用意してあり、おかしかった。
 ステップが分かっても、どこのビートでどのステップを踏むのか、ダンスもとにかくビートを感じとっることだ。
 マウンゲラナリラいうムビラグループのライブに言った。ダンサーのトンデライの体全体で思うがまま踊る開放されたダンス。アフリカの音楽がリズムを体全体で表現することなのだとういことを、私も踊りまくって体全体で感じた。頭で考えることに慣れすぎた日本人には、頭を振り腰を振り、足を刻み、体で自分を開放し表現することで自分が癒されていくことの大切さを、ムビラ音楽が教えてくれているように思った。
リズムに覆われている日々だ。




ムビラスタイルの多様化
 ムビラジャンクションのくまさんが宿のパームロックヴィラで帰国パーティーを行った。長年、ジンバブエと日本を往復して、多くのムビラ関係者と交際してきくまさんだけに、ガリカイ一家、サミュエル・ムジュル一家、ブレ、シンボティー、豪華メンバーが集結した。

  ムビラプレイアーは、いつも歓迎の気持ちをムビラを披露してあらわしてくれる。食事が済んだころ、まずガリカイ一家が、数種の違うチューニングのムビラを合奏して彼らオリジナルの曲を聞かせてくれた。その演奏に、ムビラメーカー、ブレがホーショウを振り、サミエル・ミュジュルが踊る。
 ポップなガリカイスタイルの後には、ムジュルがダンバトォーコチューンの懐かしいような響きのムビラを奏で、伝統スタイルで演奏する。ムジュル一家は演奏が興に乗ってくるとなぜか立ち上がり、ムビラを頭の上にかかげて弾いたする。服装も、彼ら独特の黒いマントを着ていたり。
 その後、シンボッティー登場。シンボティーに習っている日本人修
行者と、渋くて深い音色のシンボッティームビラで演奏してくれ、時々ガリカイさんもその演奏に加わっていた。
 ショナ族の中でも、いろいろなムラビスタイルがある。伝統スタイルの中でも、それぞれプレイアーによって独特の世界がある。知れば知るほど、このムビラの多様性とそれぞれの個性的な世界に深みを知るのだった。


クムーシャ
 ハラレに住む人々は、定期的にクムーシャと呼ばれる生まれ故郷に帰る。ムビラ職人ジョナの帰省について、有名なムビラプレイヤーを排出している地モンドロを訪ねた。
 ムバレから2時間ほどコンビで走り、下車した舗装道路から1キロぐらいは一応店があって、その後は野原だけでそこを牛に引かれた荷車にのって5キロほどいったところにジョナのワゾラ一族が住んでいた。集落もなく、遠くに丸い土壁に三角のかやぶき屋根をのせたショナ族の伝統的な小さな家が見える感じで、畑と野原が広がり、想像したよりも田舎だった。
 牛の放牧に畑を耕し、井戸水を使い、森から薪を拾って家の中央にある囲炉裏で料理する。電気、水道はない暮らしの中で、囲炉裏を囲んで家族が話をし、水も食べ物もハラレの消毒臭さはなく自然でおいしくて、とても私を澄み切った気持ちにさせてくれた。
 「ハラレの生活はお金がないと貧しいよ。でも、クムーシャはすべてが与えられているんだよ。祖先からもらった地にいれば、私たちは豊かだ」ジョナの言葉に、自然に生かされ、過去から現代への命の連なりを感じ、その大きな世界の中に包まれる幸せ。こういうのが、人の本当の幸せなのかもしれないと、私はジンバブエで思ってしまう。



ジンバブエ去りがたし
 パスパミレの家に最初の1ヶ月は週3回だった。しかし、最後には週5回になっていた。マチュピサので出没頻度が多いので、パスパミレの家の近くの子もエリカと名を覚えて、いくたびに連呼されるようになり、うれしい。 ムビラ職人アドマイヤーの家の赤ちゃんパウリンが、病院に入院してしまって、奥さんに習っていたダンス教室も急遽終わってしまった。パウリンは呼吸器の病気で酸素を使っているらしくて、パシパミレいわく、酸素を使い出したらかなり危ないといっていた。日本の医療では、酸素ぐらい軽症でも使うのに。(5月パウリンは他界した)

 パシパミレから、最初の1ヵ月半は6曲の新曲をもらったが、残りは17曲あるレパートリーの全部のクシャウラとクチニラが弾けることの復習に費やした。新曲をほしがっても教えてくれなかった。「多くのバリエーションを知るより、ベーシックを身に付けることが何よりも大切だ」と彼はいう。同じことを弾き続ける中で、自分の音色が変わり、リズムが体に芽生えてくることを知った。
 パシパミレにホーショーと太鼓(ンゴマ)の歌マンデという曲も習った。ホーショウは音が伝統と違うとよく言われる、リズムが合うだけではない伝統の音。難しい。
 歌もずっとムビラ職人ジョナの姉チポとパシパミレに習っている。数ヶ月では、ショナの独特な節回しをムビラを弾いたり、ホーショウを振りながら 歌うなんて身につかない。

 日本から、ジンバブエから郵送した荷物が届いたと連絡があった。ムビラジャンクションのくまさんが、荷物が届かないと困っていたので、買い付けたムビラ100台の行方を心配したが、ほっとした。くまさん、まさ、ムビラを買い付けるみんなの荷物が届いたようで、安心した。

 ムビラ、ホーショウ、ンゴマ、歌、ダンス、ニュンガニュンガと、ムビラを囲む要素をできる限り習ったが、どれだけに身についたのだろうか。奥が深すぎて、自分の上達を実感できない。また、再び来ることを誓って、ジンバブエを後にした。